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フィンランド外務省

フィンランド大使館・東京: 大使挨拶 : 探検家A.E.ノルデンショルド

フィンランド大使館、東京

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明治初期における日本とヨーロッパ学術探検隊の出会い フィンランド出身のA.E.ノルデンショルド率いる北東航路探検隊の来航

Adolf Erik Nordenskiold今を溯る120 年前の1879 年9月2日、スウェーデン国旗を掲げた蒸気船ヴェガ(Vega)号の横浜港への到着は世界的なセンセーションを起こしました。アドルフ・エリック・ノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskiold)率いる30名の北極探険隊は、北東航路を通り北部欧州から日本への航海に成功しました。北東航路によるノルデンショルドの航海は、科学探険の歴史では伝説になっています。しかし驚いたことにノルデンショルドの日本滞在は、日本以外ではほとんど知られていません。またフィンランド以外では、ノルデンショルドがフィンランドに生まれ育ったことや、彼の後半生のフィンランドとの関わりについては、一般にほとんど知られていません。本稿は、そうした情報のギャップをも埋めることを目的としています。

「すべて予測していた通り」

欧州から東アジアへの最短航路である北東航路を通って航海できることは、何世紀にもわたって知られており、部分的には既に多くの人達が航海していました。従ってノルデンショルドは北東航路を発見したわけではありませんが、彼の遠征は北東航路が西端から東端まで航海可能なことを初めて証明して見せました。遠征は単なる航海ではなく、自然科学にとって重要な多くの研究課題を含む綿密な科学計画を実行するものであり、計画はスウェーデン王オスカル2世(OscarII)によって承認されていました。航海の費用は、大部分をイョテボリ(Goteborg)の木材商人オスカル・ディクソン(Oscar Dickson)が負担し、一部は国王自身、またロシア商人アレクサンドル・シビリャコフ(Alexander Shibiryakov)も負担しました。捕鯨船であった「ヴェガ号」が遠征の旗艦として装備されました。船長はルイス・パランデル(Louis Palander)でした。乗組員は30名で、その中にはロシア語通訳として遠征隊で活躍した20歳のフィンランド人、オスカル・ノルドクイスト (Oscar Nordquist)中尉もいました。ノルデンショルドは、それまでの北東航路による遠征は、海岸線より非常に離れて航行したために失敗したと考えていました。彼は、夏はシベリアの川から流れ出る水によって、海岸近くの水域も航行可能であると信じていました。遠征航海は1878年7月4日、スウェーデンのイョテボリを出発し、計画に沿って順調に進んでいましたが、9月28日ベーリング海峡から航海距離にして僅か2日の、120海里のピトレカイ沖で船は流氷に囲まれてしまいました。もし遠征隊がその場に僅か2~3時間早く到着するか、又は沿岸Norden 2からもっと離れたところを航行していたならば、その夏中に北東航路航海を完了できたことでしょう。翌 1879年7月18日、ようやくヴェガ号まで氷の割れ目が達し、学術的には実りの多かった越冬を終えて航海を続行することができました。ノルデンショルドの航海前の入念な準備によって、遠征隊は幸運にも誰一人として壊血病やその他の不幸な事態に遭遇することはありませんでした。有名なスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディン(Sven Hedin)によると、ノルデンショルドは非常に綿密な計画立案をしていたため「すべては計画通りに進み、すべて予測していた通りであった」のでした。ベーリング海峡到達直前に流氷に阻まれたことが、唯一の大きな不測事態でした。またルイス・パランデル船長の並外れた航海術なくして、航海が完了することはありませんでした。ノルデンショルド自身は北極圏の船乗りではありませんでした。当時の評判では「ノルデンショルドほど氷を恐れた者はいない」といわれ、北極圏の船旅では、彼はいつも船酔いをしていました。学者である彼は、細々としたことに時間を割く忍耐は持ち合わせておらず、直ちに要点や結論を知りたがりました。彼の個人的な資質が希に見る探検家を生んだのでした。

東京地学協会による歓迎

日本では1879年、北白川親王を会長として東京地学協会が設立されました。学会は、皇族・貴族・高官・政治家・学者・実業家など、明治初期の上層階級の人々を会員としていました。ドイツ・アジア協会 (Deutsche Asiatische Gesellschaft)会長のフォン・アイゼンデッカー(von Eisendecker)ドイツ公使は、8月25日に東京地学協会に連絡を取り、ノルデンショルド率いる遠征隊による北東航路の航海が成功裡に進んでおり、数日でヴェガ号が日本に到着予定である旨を通告しました。彼は、東京地学協会に対して、東京地学協会、英国アジア協会(British Asiatic Society)、ドイツ・アジア協会の共催で、ノルデンショルドとその遠征隊を歓迎する意向があるかどうかについて問い合わせました。東京地学協会は、9月2日、ヴェガ号が横浜に停泊したその日に、要請を受け入れました。著名な外国の科学者を歓迎することによって、設立後まだ日が浅い学会はその名を世に知られることになりました。それはまた、外国の学界との関係構築を奨励することにもなりました。日本が2世紀にわたる鎖国を終えたのは、ノルデンショルドが来日する僅か20年前であり、当時諸外国との交流は限られていました。

歓迎の宴は、1879年9月15日に旧東京帝国大学工学部の前身である工部大学校で行われました。北白川親王、東伏見親王、アメリカ公使、イギリス公使、ロシア公使など総勢 130名以上が参加する当時としては盛大な歓迎式典でした。東京地学協会からは、祝いの印として特製の銀の記念メダルがノルデンショルドに授与されました。答礼のスピーチで、ノルデンショルドは東京地学協会の会長である北白川親王に対して、学会の派遣による日本の遠征隊を北西航路で東アジアからヨーロッパへ、また北極探検隊などを送るように勧めました。9月17日、ノルデンショルドは明治天皇の接見を受けました。ヴェガ号の横浜停泊中には、約7000 冊、書名にして10000以上の当時の日本の書物が購入されました。ノルデンショルド自身は日本語が分からなかったため、彼はオランダ人の製薬業者ギェルツェス(A.J.C.Geertzes)に書物購入の手助けをしてもらいました。ギェルツェスの助手大口正之は、横浜と東京の書店から本を買い集めました。三木宮彦氏によれば、無作為抽出ではあったものの、当時出回っていた書物の代表的な本が集められているとのことです。時間が十分でなかったためか、特に一貫した収集が行われた様子はありません。収集された書物は現在、ストックホルムの王立スウェーデン図書館に収められています。10月11日、ヴェガ号は横浜を出港し神戸に向かいました。神戸には13日に到着し、そこから一行は京都と琵琶湖を訪れました。遠征隊は10月21日に長崎に到着し、出島を訪れました。ヴェガ号は、長崎を10月27日に出港し、スエズ運河を通る南ルートで航行しました。途中、香港、シンガポール、スリランカ、ナポリ、ローマ、リスボン、ロンドン、コペンハーゲンに停泊し、ストックホルムには1880年4月24日に到着しました。

ヨーロッパへの途次、ノルデンショルドは自らの航海日誌の編集に取り掛かりました。全800ページ以上に及ぶ日誌は、「Vegas fard kring Asien och Europe」という題名で 1880~81年にかけて2巻本として出版されました。英語版は「The Voyage of the Vega Round Asia and Europe」という題名で出版され、フィンランド語を含む九言語の翻訳版もほぼ同じ頃の1881~83年の間に出版されました。しかし1988年に日本語版「ヴェガ号航海記(上・下)」が出版されるまでには1世紀を要しました。本で得た印税で、ノルデンショルドは地図帳400冊、地図2万4000枚というおびただしい数の貴重な収集を行いました。それらはノルデンショルドの死後、遺族からヘルシンキ大学図書館に買取られ、そこで現在にいたるまで収蔵されています。ヘルシンキであることには理由があります。ノルデンショルドはフィンランドで生れ、フィンランドで教育を受けたのです。

フィンランド時代のノルデンショルド

1692 年、スウェーデン、ウップランド(Uppland)のティエルプ(Tierp)教区出身のノルデンショルドの曾祖父のエリック・ノルドベリ(Erik Nordberg)は、ある領地の財産管理の為にフィンランドに派遣され、後に定住することになりました。彼は、フィンランドでジャガイモ栽培を広めた人物として知られています。ノルデンショルドの父ニルス・グスタフ・ノルデンショルド(Nils Gustaf Nordenskiold)は鉱物学者であり、1823年には鉱山庁の長官に任命されています。気鋭の科学者として、また多くの外国科学学会の会員として、彼は「フィンランド鉱業の父」として知られるようになりました。アドルフ・エリック・ノルデンショルドは1832年に、ヘルシンキのブレヴァルド (Bulevard)5番地で生れました。幼年期は、彼の父親が鉱物の採集をしていたマンツァラ (Mantsala)にあるフルゴルド(Frugard)荘園で暮らしました。父親は野外研究調査の旅にアドルフを何度か同行し、鉱物の見分け方を訓練しました。邸宅には18世紀からの書物を収めた父親の蔵書がありました。蔵書は1960年に、トゥルクのオーボ・アカデミー(Abo Academy)大学図書館に寄贈されました。アドルフ・エリック・ノルデンショルドは、後にフィンランドの国民的詩人として有名になったルーネベリ (J.L.Runeberg)が校長をしていたポルヴォーの中・高等学校に入学しました。ルーネベリはノルデンショルドを「全くの怠け者」と評していました。後にノルデンショルドの勉強意欲は改善しましたが、不当に罰を受けた他の生徒に同調して卒業を前に退校してしまい、1849年に独学で大学入学資格試験をパスしました。ノルデンショルドはヘルシンキ大学で勉強し、1853年、若干21歳で修士号を取得しました。その後彼は父親に付き添って、ウラル山脈へ鉱物研究の旅に出かけました。1855年には、既に博士論文を書き上げました。彼はまたフィンランドで見つけられた鉱物を詳述した「Beskrifning ofver de in Finland funna mineralien」など他にいくつかの科学論文を書きました。彼はベルリンで1年間研究を続け、1856年、太平洋岸へ向かうユーラシア大陸横断を目的とした最初の調査旅行の準備に取り掛かりました。

ノルデンショルドはヘルシンキ大学で嘱望された学者としての道が用意されていました。彼は、1852年に設置され、適任者がいないため空席になっていた地質・鉱物学教授の有力候補でした。しかし政治が介入して来ました。1809年、12世紀以来スウェーデン領の一部であったフィンランドは、ロシア帝国下の大公国になりました。一般にフィンランド人は、高度の自治を維持していましたが、特にクリミア戦争(1852~56)当時、フィンランドのロシア総督府は、1809年以前への時代回帰の動きを察知するため、世論には目を光らせていました。不運なことに、自由闊達なノルデンショルドはロシアへの反感を隠すことはしなかったため、大学に持っていた2つの職を剥奪されました。 1857年、ノルデンショルドはスウェーデンに行くことを決め、自然科学博物館でカール・グスタフ・モサンデル(Carl Gustaf Mosander)教授に師事しました。当時彼は、オット・トレル(Otto Torell)率いるスピツベルゲン(Spitzbergen)への北極遠征隊に初めて参加しました。彼は、1858年秋にフィンランドに戻り、ヘルシンキ大学の教授として働くことを望んでいました。しかし総督のスパイが彼の一挙手一投足を見張っていました。大学の採用決定を待っていると、スウェーデン科学アカデミーから思わぬ仕事の話しが舞い込み、モサンデル教授が死去したため、その教授職が当時若干26歳のノルデンショルドに持ち掛けられたのです。彼は申し出を受け入れましたが、その時は、フィンランドを離れるのは一時的なことと考えていました。フィンランドを離れるためには、新しいパスポートが必要であり、それを入手するにはフォン・ベリ(von Berg)総督に直に接触するしかありませんでした。総督はパスポートの約束をしましたが、同時にノルデンショルドにフィンランドに別れを告げなければならないと宣告しました。ノルデンショルドが翌日パスポートを受け取ると、そこには14日以内の出国命令書が添付されていました。命令書は法的なものではありませんでしたが、事実上有効であり、彼は総督の任期が終了する1862年までフィンランドに戻ることはできませんでした。スウェーデンは、科学者の間で既に名声を確立していたノルデンショルドを心から歓迎しました。1860年、彼は科学アカデミー会員の勧誘を受けました。スウェーデン市民となり、フィンランドの貴族社会の一員であったノルデンショルドは、スウェーデンでも貴族階級の議員としてスウェーデン議会の席を得ました。

ノルデンショルドは、兄弟姉妹が暮らすフィンランドと緊密な関係を維持し続け、1863 年アンナ・マンネルハイム(Anna Mannerheim)と結婚しました。後のフィンランドのカール・グスタフ・マンネルハイム(Carl Gustaf Mannerheim)将軍は、アンナ・ノルデンショルドの甥に当ります。1864年にスウェーデン議会が北極遠征航海の支援取りやめ決定を行った時、ノルデンショルドはフィンランドに戻り、空席であった教授職に就く用意ができていました。大学は1867年に教授として招こうとしましたが、関係当局の許可がおりませんでした。1874年に再びノルデンショルドをヘルシンキに招こうとする話しが持ち上がりましたが、ノルデンショルド自身、既に20年近くにわたって暖かく彼を迎え入れてくれたスウェーデンを捨てることはできないと感じるようになっていました。彼は残りの人生をスウェーデンで過ごすことになりますが、個人的な、また学問を通してのフィンランドとの緊密な関係は、彼が亡くなる1901年まで変わることなく続きました。(ヤマギワ株式会社発行「きゅうぷらす」1999年第4号掲載)

著者:カウコ・ライティネン
ヘルシンキ大学レンヴァル研究所(1996-2000フィンランド大使館報道参事官

日本語文献:

三木宮彦著「ノルデンショルドの本棚」図書(岩波書店)1979年10月 p.46-51

ノルデンショルド著小川たかし訳「ヴェガ号航海記(上・下)」フジ出版社1988年

1999年ノルデンショルド来日120周年記念セミナー録「A.E.ノルデンショルド-フィンランド生れの学者・探検家」エスコ・ハクリ Esko Hakli「ヘルシンキ大学図書館ノルデンショルド学術図書コレクション」エスコ・ハクリ Esko Hakli

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更新 2014/02/04


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