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戦争から平和へ 、激動時のフィンランドを導いたマンネルヘイム - フィンランド大使館・東京 : 最新ニュース

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最近の出来事・お知らせ, 2017/08/14

戦争から平和へ 、激動時のフィンランドを導いたマンネルヘイム

Mannerheim

ヘルシンキのランドマーク、キアスマ国立現代美術館手前のマンネルヘイム通りを見下ろすマンネルヘイム騎乗像。

フィンランランド激動期の最中である1944年、マンネルヘイム陸軍元帥が大統領に就任した。2017年6月4日には、マンネルヘイム生誕150周年を迎えた。フィンランドで戦時の英雄として最も有名なカール・グスタフ・マンネルヘイム(1867.6.4.~1951.1.27.)は、1944年8月から1946年3月まで、大統領として戦争から平和へ移行するフィンランドの舵をとった。

マンネルヘイムは、フィンランドがロシアから独立する1917年以前には、ロシア軍に所属し、軍司令官にまで登りつめていた。フィランド独立後、母国の陸軍元帥となり、第2次世界大戦中は国防総司令官、続いて大統領に就任した。フィンランドで軍人が大統領になったことは後にも先にも例はない。マンネルヘイムは78歳のとき健康上の理由から大統領職を退いた。

ロシア軍の軍人からフィンランド共和国大統領に

Photo: Lehtikuva
Mannerheim Russian uniform
1900年代はじめ、ロシア陸軍の制服に身を包むマンネルヘイム。

ロシア自治大公国時代にフィンランド人として生まれたマンネルヘイムは、20歳になった1887年秋にロシア陸軍に入隊し、その後30年間ロシア軍に籍を置いた。ロシア宮廷に非常に近い存在であったため、ロシア革命後の1918年1月にロシアを逃れてフィンランドに移った。

独立直後のフィンランドでは、社会主義の赤軍と中産階級の白軍による短期間ではあるが悲惨な内戦が起こった。しばしば無情な手段も躊躇しないマンネルヘイムの指揮下、白衛軍は赤衛軍を打ち破る。フィンランドの内戦に外国が干渉し、ドイツは白衛軍、ソ連は赤衛軍を支援した。

内戦によって国内は分裂したが、1930年後半にマンネルヘイムが左派に手を差し伸べ、社会民主党の信頼を得ると、内戦の傷痕は徐々に癒え始めた。

1920年~30年にかけて、フィンランド国内では多くがマンネルヘイムを中傷した。だが、ソ連がフィンランドを攻撃した1939年秋、社会民主党はマンネルヘイムが陸軍元帥に就任することを承認する。1941年夏に継続戦争が勃発し、フィンランドは再びソ連と戦火を交えることになるが、マンネルヘイムはその間も左派社民党の信頼を失うことはなかった。

満場一致により大統領就任を説得される

議会によってマンネルヘイムが大統領に選出された1944年8月、フィンランドの独立は大きな危機に直面していた。ソ連とは3年にわたる戦争の最中であり、ドイツとは軍事的同盟を組んでいた。その夏中、ソ連軍は容赦なくフィンランドへの攻撃を続け、フィンランド軍は既に7万人も兵士を失っていた。

議会はフィンランドがドイツとの同盟を解消し、ソ連と講和条約を結ぶことを求めていた。国会議員らはフィンランドを戦争から平和へ導く権限を有するのはマンネルヘイムの他をおいていないと考えた。主導権を握っていた右派、中央、左派の議員らが超党派で、国家元首就任に気がすすまないマンネルヘイムを説得にかかった。大統領となったマンネルヘイムは歴史の重圧にもかかわらず職務を遂行した。

1944年秋、フィンランドはソ連と休戦協定を締結する。ソ連の提示した条件は厳しいものだったが、フィンランドはソ連による占領を免れ、独立と民主主義を維持した。ドイツとの同盟は破棄し、北部フィンランドに残留していたドイツ軍を1945年冬に退去させた。

ソ連は継続戦争が終結すると、戦時の指導者を処罰することをフィンランドに要求してきた。リスト・リュティ大統領、エドヴィン・リンコミエス首相、財相であり社会民主党党首であったヴァイノ・タンネルらが有罪を宣告された。

一方、戦時に少なくともリュティをはじめ有罪となった者らと同様に重責の立場にあったマンネルヘイムは有罪とならなかった。継続戦争後ソ連のメディアがマンネルヘイムを強く非難したにもかかわらず、ソ連当局はマンネルヘイムの有罪判決を積極的に求めなかったのだ。

いまだに人々の関心を集めるマンネルヘイム

Mannerhiem
1941年7月、リスト・リュティ大統領(中央)やユッカ・ランゲルと軍本部があったミッケリの街を歩くマンネルヘイム(右)。

マンネルヘイムが死去した1951年以降、彼の長い経歴は再評価されるようになる。時に政治的色あいも交えながら、マンネルヘイムに対する評価は二転三転した。冷戦もまたマンネルヘイムの業績に対する正しい評価を難しくした。フィンランド国内でマンネルヘイムが話題になると、ソ連がすぐさま口をはさんだ。

ところが冷戦が終わると、マンネルヘイムの一番の業績は、フィンランドが戦争から平和に移行する短くも重要な時期に大統領として見事に国の舵取りをしたという点であると、誰もが同意見であった。

最も批判的な者でさえ、彼が激動期のフィンランドの大統領として最適であったことに異論を唱えなかった。当時の状況下、マンネルヘイム以外の人材が上手く国の舵取りができたかどうかには大きな疑問符がつく。

マンネルヘイムはその生涯や経歴について最も研究されている、フィンランドの偉人である。フィンランド国内外で300冊近い本が出版され、新しい研究結果が現在も発表され続けている。

歴史家にとってはマンネルヘイムほど意見の分かれる対象はない。ある歴史家は、母国を救った英雄とし崇拝の対象である。一方では、マンネルヘイムが内戦時にとった行動や冬戦争(1939~1940)、継続戦争(1941~1944)での指揮者としての能力を疑問視する。

マンネルヘイムの生涯は、世代を超えて一般のフィンランド人の関心も高い。ヘルシンキにあるマンネルヘイムの家は60年を超えて博物館として公開されており、今でも大変人気がある。当時の貴族のように華麗な生活や遠征の様子が覗える。

By Unto Hämäläinen, May 2017
This is Finland, Soldier Then President, Mannerheim took Finland from War to Peace

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更新 2017/08/15


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